何故私はTRPGを遊びたくなってしまったのか

一生終わる事の無い人生の感想文の一片

Table of Contents

  1. おことわり
  2. 動画投稿 Web サービス毎による雰囲気
  3. 自分が思う TRPG を遊ぶ(遊んでしまう)理由
    1. 好感的な自己効力感
    2. ダイスの出目の無情さ
    3. 同じあらすじでも違う物語
  4. ここまでのまとめ
    1. でも……一緒に遊んでもらえる友達が居ない
    2. 感想戦を忘れるな
  5. 最後の自虐オチ
    1. どこかで見た『はてな匿名ダイアリー』の一節
    2. 自己効力感を得れなかった自分
  6. だから私は、未だに 10 歳児の発想

ある TRPG のリプレイ動画を眺めていたのだが、違和感を感じたのでしたためておく。

特に、 「リプレイ動画の続編はシナリオ公開されている」 にも関わらず、 「そのシナリオも実際に遊んで動画にして欲しい」 という感想が出ていた事に対してである。

他には、 「結末やロールが気に入らない。ドラマティックにするためにダイス目を操作しているであろう?」 という様な感想に対してもあるが、この辺についても書くかもしれない。

ただ、こんな地方の田舎ものの TRPG 観をのたまいたって、誰も読みはしないのだろうが。

おことわり

この記事はあくまで『とある人型の害畜』ないし『歳だけ喰った 10 才児』の、 「他人が TRPG という娯楽に抱いているであろう感想と、自分が抱く TRPG の齟齬」 について、書いた言葉の羅列の意味も漠然としてるまま記したものである。 真に受けると余計に TRPG を楽しめなくなる可能性があるので、テキトーに読んで頂きたい。

また、筆者は主に『(新)クトゥルフ神話 TRPG』を好んで遊ぶもののため、TRPG プレイヤー だったとしても齟齬が発生するのは否めない。それも合わせてテキトーに読んで頂きたい。

動画投稿 Web サービス毎による雰囲気

多少は、いやむしろ強く、動画投稿 Web サービス毎の雰囲気というのはある。

私が眺めていたリプレイ動画は『ニコニコ動画』に投稿されているものである。 更に言えば『東方 Project』のキャラクターでプレイヤー自身を演出しているものである。

二次創作コンテンツを投稿しやすいのは『niconico』の良い所であるが、それは置いておく。 また『ニコニコ動画』の特性として、動画の上にコメントが流れるのは他のユーザーの コメント意欲をそそらせる作りなので、それも良い。ただ、これも脇に置く。重要な事じゃない。

多少は元々のキャラクターに抱いている各視聴者の印象も働いたり、TRPG をやった事が無いと余計に、 「PL1 と PC2 の区別と、PL と PL の仮の姿」 について意識を働かせなければいけないので、意識が働いていないと; PL の仮の姿⇔実際に遊んだ PL⇔PC ⇒ PL の仮の姿⇔PC と解釈されがちである。

上述の誤認の結果の一つとして、 「ゲーム内の物語と動画内のゲーム進行にあたっての対話」 に、視聴者が現実味や親近感を覚えずに、ゲーム内の物語に『ご都合』を覚える視聴者が まま居る。

ましてやその TRPG が扱う世界観に馴染みが無いと余計に解釈の齟齬による口論が 初まったりするので、少し悲しくも思う。


私自身が『クトゥルフ神話 TRPG』の KP をする際に関しては私自身が、 「PL に不愉快な思いをさせたくない上に、PC にもやや愛着が湧いてしまう」 という臆病者のため、なかなか非情・無情な進行をする事ができない。

上記も大概な『ご都合』なのであるが、『クトゥルフ神話 TRPG』においては割と PC は あっけなく肉体か精神、ましてやそのどちらも死ぬものである。

この辺りは「全く加減をしない野生動物」や「家畜」と触れ合う事の無かった人々には 想像がし難いのではあるが、ツノを焼いた事でツノの生えていない メスのホルスタインに本気で正面からど突かれたら、あばら骨が数本折れるものである。


閑話休題。そういう輩に対しては、 「素人でも玄人でも、貴様(敬称)の価値観は自分の卓で行って黙っとれ 😇」 という気持ちで、目や耳を塞ぎ、口も噤めば良いだけの話ではある。

とは言え、場も無く語るのも健康に悪かったりするので いや、本当 、 ここで語らせて頂く。

自分が思う TRPG を遊ぶ(遊んでしまう)理由

この部分を書きたいために DOOM Emacs を起動したも同然である。

「むしろここまで書くのに、なんでこんなに長いの?」 とツッコんでも構わん。その程度の文才なのである。

好感的な自己効力感

ここ最近、通所先の精神科デイケアで TRPG をさせてもうに当たっての提案書を 書くにあたって、改めて TRPG の何が面白いかを考えた。 漠然とデイケアメンバーの方々を眺める限りで、 「自己効力感が薄い気がする。そのせいかは別と思うが、『学習性無気力』の雰囲気が濃く出ている」 と思ったりした。

他にも『SST の様なロールプレイング』『メタ視点を活用する』などを提案書に明記した記憶があるが、 私自身が漠然と抱いていた悩みの根源を、現存する命名で合てるならコレだし、自分自身もメンバー つまりは患者なので、けっこう「自分自身の治療方針として」という提案をしたのである。

上述の様な精神疾患や認知や発達の障害が無くても、多少失なった自己効力感を改めて確認できる可能性が TRPG にはあると思い抱き続けてしまっている今である。

ダイスの出目の無情さ

しかし、現実でも自分の希望や要求が常に通るという事は残念ながら無い。

そこは細かな要因が絡むものかもしれないが、文字や言葉にするのさえ煩わしいものである。

そういう部分を表現するのに『サイコロ』『ダイス』といった乱数生成機を用いて検証するのである。

テレビゲームや PC ゲームの RPG でももちろん乱数・ランダム要素を加えているが、 そういった要素は大抵ゲーム内の戦闘シーンでしか用いられていない。

コンピューターヲタクの発想だが、 残念ながらまだ現代のコンピューターやそういった計算装置に用いる保存媒体では、 ゲーム開発者が思い描くあらすじに退き戻す演出を、プレイヤーの心に残る形では演出しにくい。

あえて『しにくい』と書いたのは、高度なプログラミング技術でプレイヤーの意図と乱数の結果 を踏まえたゲーム展開を生成する事が今日でもできるのかもしれない為。

この記事を投稿した数年後に深層学習と遺伝的アルゴリズムによる実装で、 「コンピューターがゲームの進行役を担うゲームシステム」が作られるかもしれないが、 せっかくなら沢山の人に今のうちに遊んで頂きたい。

同じあらすじでも違う物語

上述の 2 つの章で述べたことを踏まえて、 あくまで私個人は TRPG は PL や PC が違えば別の物語になる、 と考える者である。

あらすじは変わらないとはいえ、私の様な「話をまとめるのがド下手」「情報の集約が不可能にごく限りなく近い」 畜生だと、あらすじを知っていても別の物語になる。

また、PL が色濃く覚えているのは『決断』の時と考える。 その決断がどの様にその後の自己の周りを変化させたのかを覚え、学ぶ。 その為人は過去を振り返って理性を保つ生き物なのだと思い抱いている。

だからこそ、別の PL や PC だった場合には物語が変わる。 あくまでこれは私の抱く感想なので、そんな事は無いのかもしれない

ここまでのまとめ

以上の理由で私個人としては、 「おまいら、そんなに動画の展開が気に入らなかったら、自分達の卓でやれよぉ……楽しいぞ? 😈」 とつい思い抱いてしまうのである。

なのでぜひやろう。


でも……一緒に遊んでもらえる友達が居ない

なお、オンラインで TRPG のセッションはできる上、支援ツールやアプリも潤沢にある。 友達はシナリオかキャラクターシートを作れば、私の様なお節介が大抵 優しく 指導してくれる……はずである。

感想戦を忘れるな

そしてあやうく書き忘れる所だったが、セッションが終わった後はしっかり感想戦を行おう。 できれば他人の決断の否定は避ける事。自分から後悔を懺悔する分には問題無いが、 その懺悔の内容を卑下するのも止めておけ。

もちろんながら感想戦なので、 「あの時は胸が熱くなる展開でした……!」 というのは積極的に共有して頂きたい。あくまでこれはゲーム・娯楽なので。

感想戦はただの「感想共有会」ではあるが、物語全体を通して、PL と PC を切り離す儀式でもある。 現実に戻る為にも、一度 PL から見た「紡がれた物語」を俯瞰した方が精神的にも良いだろう。

最後の自虐オチ

ただ、まず私個人に関してはこういう空想の共有事については活力を持って意欲的になれるが、 実生活はズタボロである。精神科デイケアに通所している今があったり、それまでも、 「仕事をしている つもり なのに、仕事をしていない」 という他者評価しか付いてこないのだから。

どこかで見た『はてな匿名ダイアリー』の一節

確か Web ページのスクリーンショットで Twitter に掲載されていたものを確認したのだが、

オタクは、精神が幼いのだ。幼いから、あんなテラって媚を売るアニメの声を通さなければ、 人の営みを理解できないのだ。

という文章だったと思う。

私もあの様な媚を売る声やキャラクターデザインは、嫌悪は抱かぬものの羞恥の念が湧いてしまうたちである。 誤解を与えそうなので突け加えると、声優さんやキャラクターデザイナーなどへの尊敬の念はある

ただ、自分に関しては『実生活』でその『人の営み』というものを理解できないなだろう。

ましてやそういったものを理解するのは、大抵はフィクション・ノンフィクションは問わないものの、 誰かの物語の中でしかない。

自己効力感を得れなかった自分

上章について今自分が思い返す限りでは、 「自分が他者に何か(良い・悪い)影響を自分が思っている以上に与えている」 という、所謂『自己効力感』の欠如だろうかと思う。

しかも私には多少都合の悪い事に、自分という畜生は『他人の好感的な言葉や行為』に対する好感を覚え辛いたち の様で、他人とボードゲームを遊んでいる時に短い感想を述べられると、 「お世事だろうな。本心だったとしても、そこまで強い感動では無かったのだろうな」 とつい思う。もしかすると「圧縮された意図」を展開する事を養い損ねたのか元から無かったかは別にして、 31 年も人間の姿で過ごしてきただけであり、何も成長はしていないのであろう。

思うに、良い家に産まれ良い様に育ててもらったから、他人の善意に鈍感だったのか、 そもそも自ら養おうとさえも思わなかったのだろう。

それに輪をかけて、投げかけられた言葉の意図の解釈の能力さえ、無いに等しい。 そんな調子なのに、社会に順応できない上に他者との乖離にばかり意識が向いていた。

だから私は、未だに 10 歳児の発想

だからだろう。今こうして朝の倦怠感に負けて精神科デイケアへの通所を止め、 こうして散文を記している。誰が見るのか、そもそも読む者が居る事にさえ期待は全く できないにも関わらずだ。

精神科デイケアへの通所に至る理由に関してもそうだ。 親父や職場の同僚からの叱責について、眠れなくなる程に真剣に考えたにも関わらず、 それでもなお親父や職場の同僚からは、 「もっと真剣に考えろ!」 と叱責されてばかりだった上に生活さえだらしなくなり、挙句には他の人間にも、 「どうしてそんなに偉そうに振る舞うのだ」 と怒鳴り散らされる始末であった。

なので無職になり収入も無くなったその足で、苦し紛れに相談支援事業所に駆け込んだが、 果たして問題を認識できないこの白痴な知性で、社会に順応できる様になれるのかさえ、 私自身に懐疑の念を覚える。いや、覚えざる負えない。

実生活での自分の効力を覚えないこの無自覚さが、社会との乖離の拡大を加速させている。

空想・絵空事の共有で物語を紡ぐ趣味も一興だが、私は現実・事実を、その通りに見る力が無い私が、 果たして社会的に生産的な事を行えるのであろうか。

Footnotes

1 プレイヤー自身のこと。Player を省略してこう表す事が多い。

2 プレイヤーが操作・演じているゲーム内の登場人物の事。Player Character。